「おじさん」の役割

以前講義をお聞きしたある先生は、高校時代、“おじさん”の影響を受けて医学部に進んだそうです。同じ職業だったお父様からは、ご自身の学んだことを積極的にご子息に伝えられなかったとのこと。その先生が、“おじさん”は人生で大事な存在だという趣旨を言われ、私もつらつら思いだしました。

昔の大学の先輩に、おじさんから信念、道となるような話を聞いて、地理的に縁のなかった大学に進まれた方がいました。私の場合、いとこの方ですが、年がかなり離れておじさんに近い意識をもつ方に、最近の大学のことで助言を受けました。そして今では、私自身がおじさんとして、助言を与えることがありました。

本来父親は、母親と異なり、細かなことをいわないが、大きな道を指し示してくれるべき存在です。しかし実際の親と子は、面と向かって、感情を抜きにして意見を言い合うには、照れくさいところがあります。親は自分が一番子供を知っていると自負しても、灯台もと暗しで、そう思いこんでいても、却って知らないこともあるかもしれません。明治時代の文豪で軍医だった森鴎外は、子煩悩でしたが、変わった末娘を心配して、早く嫁にやったが、没後、娘は離縁されました。再婚するもまた離縁されたその人は、一説によればASD(自閉スペクトラム症)だったそうです。さすがの鴎外も娘を客観視できなかったのかもしれません。しかし娘さんは、独自の感性が人気を得て、一部で有名な作家となりました。

他方、学校教師に代表される第三者は、その子を客観的にみて関わることができ、冷静な立場から説教をされます。それを聞ければいいのですが、子供の側が、何もわかってくれない、と反発してしまうこともあるでしょう。高校野球の清宮選手は、父親がラグビー界のスターだった方ですが、この父子は、ときに友達のように、ときにコーチのように、率直かつ客観的に対話ができる関係だそうです。しかしそうした父子は日本ではまだまだ少ないのではないでしょうか。

他方、おじさんという存在は、家族ではないが、かといって学校教師のような第三者でもない。小さい時から知ってくれているが、親や教師のように毎日接するわけでない。子供にとって、身近にいても、常に一緒にいたわけではない、ときどきしか会わず、だから愛情をもちつつも客観視できるのかもしれません。おいの立場でおじさんについて書かれた本に、『僕の叔父さん 網野善彦』(中沢新一、岩波新書)があります。文化人類学者である筆者は、おじ~おいという関係は、権威主義的にならない、自由で大事な価値が伝わる関係だとあります。その義理の叔父さんは有名な歴史学者で、お二人のつながりは、この本で知ったのですが、分野も考えも一見違ったようでいて、人間に対する基本的な信頼感、楽観性、民主主義的態度というものは共通しているのだと気づきました。女性だと、おばとめいというように、同性同士がいいように思います。ふだん気づかれていないかもしれないが、大事な人間関係だと思い、書いてみました。